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民話

●折れなかった腕(原) ●佐田山のキツネ(佐田) ●勝軍地蔵(岡村)
●雨乞いの神様(原) ●獅子塚(下田辺) ●爪描き地蔵(長更)
●接待地蔵(野篠) ●正念塚(茶屋) ●榎木の獅子(世古)
●乳の宮(積良) ●黄金塚(宮古) ●夜泣き橋(岩出)
●オコリ神(積良) ●まめくじ大王(宮古) ●蚊野松原の変(松ヶ原)
●千引岩(勝田) ●大乗妙典塔(小社) ●首切り地蔵(田丸)
●おきな塚(勝田) ●洪水から救った観音さま(曽根) ●馬駆け神事(野篠)
●金明水・銀明水(田丸) ●まいあがったはんこ(中角) ●豊富地蔵(勝田)
●本町地蔵(田丸) ●長者ヶ渕(岩出) ●龍の枕(昼田)
●身代わり歯痛地蔵(田丸) ●あなぼとけ(上玉川) ●岩坂不動の霊水(勝田)

折れなかった腕(原)

むかしから原は百町もの田んぼが続き米どころとして開けてきました。
今から200年程前のことです。
ある年の6月、田植えを終えたお百姓さんたちは、
「これで今年も豊作じゃのう」
と、ほっとしていました。
それからのことです。いっこうに雨が降らず、田んぼは地割れがして苗は枯れはじめてきました。
「雨が降ってほしいのう」
と、村人たちはいっこうに降りそうにもない空を見上げていました。
しかし日照りはいつまでも続き、国束山(くづかさん)からさがった新池やヒジヤ池、叺池(かますいけ)の3つの池も、とうとう底が見えてきました。
「このままでは今年はさっぱりじゃと、村中さわぎだしてきました。
なんとかしなければいけないと思いつつ、めぐみの雨は降りそうにもありません。
ところが、代官さまから年貢米を増やすようにとおふれがでたのです。藩の財政が苦しくなるといって農民にしわよせがきて、税を重くするのです。
さあ、村は大変なことになりました。村人たちは、大干ばつでお米がとれないというのに、年貢米は増やしてくる。わしらはどうしたらいいのだろうと悩みました。
こうなれば年貢を下げてもらうよう代官さまに頼むよりしかたがないと、村人たちは代官さまにうったえました。
しかし、代官さまは、首をよこに振るだけで村人たちの言うことなど聞いてくれません。こうなったらみんなで代官さまにおしかけて反抗するより方法がないということで、かまやくわをもって集まりました。
けれどもどんなにあらそっても負けるのは決まっています。おいつめられた村人たちは、村の神社へ行って、雨乞いをしました。
天からのめぐみを祈るより方法がみつからなかったのです。
鐘や太鼓で「アーメターモレターベヨー」
手を合わせて、なんどもなんども祈りました。
すると、雲が出てきて雨が降ってきたのです。
「よかった、よかった」
と肩をたたき合って喜びました。村人たちの苦しみが天に届いたのです。
それからは干ばつで困ると神社へ集まって、雨乞いをしました。
この神社をまつってあるところを宮田の森といいます。


雨乞いの神様(原)

 むかしから原は百町もの田んぼが続き米どころとして開けてきました。
今から200年程前のことです。
ある年の6月、田植えを終えたお百姓さんたちは、
「これで今年も豊作じゃのう」
と、ほっとしていました。
それからのことです。いっこうに雨が降らず、田んぼは地割れがして苗は枯れはじめてきました。
「雨が降ってほしいのう」
と、村人たちはいっこうに降りそうにもない空を見上げていました。
しかし日照りはいつまでも続き、国束山(くづかさん)からさがった新池やヒジヤ池、叺池(かますいけ)の3つの池も、とうとう底が見えてきました。
「このままでは今年はさっぱりじゃと、村中さわぎだしてきました。
なんとかしなければいけないと思いつつ、めぐみの雨は降りそうにもありません。
ところが、代官さまから年貢米を増やすようにとおふれがでたのです。藩の財政が苦しくなるといって農民にしわよせがきて、税を重くするのです。
さあ、村は大変なことになりました。村人たちは、大干ばつでお米がとれないというのに、年貢米は増やしてくる。わしらはどうしたらいいのだろうと悩みました。
こうなれば年貢を下げてもらうよう代官さまに頼むよりしかたがないと、村人たちは代官さまにうったえました。
しかし、代官さまは、首をよこに振るだけで村人たちの言うことなど聞いてくれません。こうなったらみんなで代官さまにおしかけて反抗するより方法がないということで、かまやくわをもって集まりました。
けれどもどんなにあらそっても負けるのは決まっています。おいつめられた村人たちは、村の神社へ行って、雨乞いをしました。
天からのめぐみを祈るより方法がみつからなかったのです。
鐘や太鼓で「アーメターモレターベヨー」
手を合わせて、なんどもなんども祈りました。
すると、雲が出てきて雨が降ってきたのです。
「よかった、よかった」
と肩をたたき合って喜びました。村人たちの苦しみが天に届いたのです。
それからは干ばつで困ると神社へ集まって、雨乞いをしました。
この神社をまつってあるところを宮田の森といいます。


接待地蔵  -野篠-

 むかしは、伊勢から熊野へ向かう時には『くまのみち』熊野から伊勢へ向かう時には『いせみち』といい、同じ道でも行く先によって呼びかえていました。
この街道沿いの野篠には、旅人達の接待をする接待場があり、街道を行く人にはお茶を出し、旅人の憩いの場としてにぎわっていました。
そしてそこにはいつもお地蔵さんが旅人の安全を見守っていてくださるのでした。
旅人達はこのお地蔵さんを接待地蔵と呼び、手を合わせて旅の安全を祈り、軽い足取りで旅立っていくのでした。
やがて時代は流れ、当時の面影がなくなった頃には、稲干場になっていきました。
秋の穫り入れが始まると、村人達の作業場となり、黄金色した稲がところせましと並べられているのでした。
そんなある夜のことです。音七さんというお百姓さんが
「今日もよう働いたのう」
と眠りに就きました。すると夢枕に
「稲干場を掘って下され」
というお告げがありました。
音七さんはこれは何かあると思い翌朝、稲干場を掘ることにしました。
「ここを掘れば何か出てくる」
とまるで宝物でも探すかのように掘り続け、目に写ったのが台座です。お地蔵さんを祭ってある台座なのです。
音七さんは
「これはお地蔵さんが埋もれたままになっているぞ」
とあちこち掘りました。幾日も掘り続けましたがお地蔵さんは見つかりません。心優しい音七さんは、これではお地蔵さんもじょうぶつできないだろうと彫ってもらうことにしました。
こうしてお地蔵さんは、むかし接待場としてにぎわった街道沿いに祀られたのでした。
今『伊勢』へ『多気』(たき)へと行き交う車の道路端に、接待地蔵は当時の面影を忍ばせながら、温和で満ちたりた表情をして時の流れをじっと見つめてみえます。


乳の宮  -積良-

 むかしむかしのことです。
「あーあ」
さきほどから、ため息ばかりついている母親がいます。産後の肥立ちがはかばかしくなく床に就き、一滴もでないお乳をしゃぶって、弱々しく泣く赤ん坊を抱きしめ、途方に暮れていました。
そばで父親がみていてもどうすることもできません。
「あーあ」
と、まるでため息が移ったかのように肩を落して山仕事に行きました。
なんとかして母親が元気になって赤ん坊にお乳があげられるようにしてやらねばと、五月晴れの空の下、山仕事をしていると、大きな楠の木が目に付きました。
それはそれは大きな木です。
よく見ると枝の間から白いきれいな花がたくさん咲いています。
村では神が樹に降り立ったと信じられ神木としてあがめられている楠の木でした。
父親はこの楠の大木に両手を合わせ、妻にお乳がでるように祈りました。
それからくる日もくる日も、山仕事に来ては、せっせと楠の大木に手を合わせ祈りました。するといつの間にか
「あーあ」
というため息がでなくなりました。
ある日、日が暮れて山仕事を終え家へ帰ってくると、いつも寝ている母親が起きて
「今日はお乳がよくでるわ」
と笑って赤ん坊を抱き、お乳を含ませているのです。赤ん坊はだんだん元気になってきました。そうしていつの間にか
「あーあ」
という母親のため息も聞こえなくなりました。
父親は、これは楠の大木に祈ったのが良かったのだと、洗い米をお礼にお供えしてお参りしました。
それからは、この楠の木を『乳の宮』と呼び、お乳がでなくなって困っている母親達がお参りするようになりました。
毎年2月11日は神祭(かみさい)が行われ、近年までは村の人達が甘酒をふるまったといわれています。
時代は変わって、樹木伝説を信じ祈ったことは、遠い昔話になってしまいましたが、杉と桧(ひのき)の森の中にまつられている乳の宮は、神秘的なたたずまいを今も残しています。


オコリ神(積良)

 幸の神(さいのかみ)。子授けの神様として有名な神社です。その神社の右手に「オコリ神」という石が祀られています。
ある年のことです。
新しい道をひろげようと村人たちが集まって小高い丘の整地をしていました。
「エイ!」
くわを入れると、ゴツンと音がしました。村人は不思議に思い
「なにかあたったぞ!」
と叫びました。
「なんやなんや」
みんなで掘りました。すると大きな比丘尼石(びくにいし)が出てきたのです。土を払いのけると、四角い溝が掘ってあります。
「大きな石やのう」
「じゃまやで下へ転がしたろに」
村人達は、仕事をするには不便だと丘の上からゴロゴロッと転がしました。
ところがその夜、石を転がした村人が、急に熱を出して亡くなったのです。
「いい人やったのになあ」
と皆は驚き悲しみました。
「あれは、あの石に祟ったのかもしれん」
村人達は転がした石を思い浮かべました。
「あの石を転がして怒らしたから、ばちがあたったのかもしれん」
早速その石を丘に引き上げることにしました。
そして神様が石に化したのだから、『オコリ神』として静かにまつっておこうと境内に運びました。
しばらくして、ある人が夫婦ゲンカをして、怒りながらここまで来て、オコリ神に参って帰ったら気持がスーとして、夫婦円満になったとか。
赤ん坊のかんの虫に悩まされていたけどオコリ神に参ったら、かんの虫が治ったといううわさがあちこちで聞かれるようになりました。
それからは、村人達はこの幸の神にお参りに来ると、必ずオコリ神にも参って帰るようになりました。
四角い溝が掘ってあるこのオコリ神は、丸くおさめてくれる神様として、御利益があるとのことです。


千引岩(勝田)

 今から130年程前のことです。
「ひゃぁー、岩から血が出とるぞぉー」
勝田大池の東から、飛び上がって走ってくる母親がいました。
「なんやなんや」
「岩から血が出とるとな、夢でも見とるのと違うか。」
と村人たちは、そんなことなどあるはずはないと相手にしませんでした。それでも真剣な顔をして話すので、それならと皆で池へ見に行きました。
おそるおそるそばに寄ってみると、確かに岩からまっ赤な血が流れています。猟師が岩に止まっている鳥を射とうとして、はずれた矢が岩に当たり、血が吹き出したのです。猟師はその場で腰を抜かしていました。
「やゃー、これはただの岩ではないぞ、神のみたまじゃ」
「このままじゃあかんぞ、なんとかしてまつらな」
しかし、この巨大な岩をどうして扱っていいのか、その時は考えつかなかったのです。
ところがある年、たいへんな不作にみまわれました。食べるものに困った村人たちに、さらに追いうちをかけるように、疫病が流行ったのです。この疫病の犠牲になったのが幼児で、何十人もの子供たちが次から次へと死んでいきました。
母親たちは我が命とひきかえにしてでも助けてやりたいと悲しみにくれました。
その時、母親たちは池で見つけた岩を思い出し、あの神霊な岩に願かけをしてみたら、と相談しました。
「村まで運ぼう」
力強い父親たちの言葉。でもあの巨大な岩をどうやって運びだせばよいのでしょう。
しかし、これ以上子供たちが苦しみ死んでいくのを黙ってみていられません。なんとかしてあの岩を運びたい。みんなで知恵を出し合い、竹林が続いているのを利用して、青竹を地面に並べ岩を運ぶことにしました。
それはたいへんなことでした。
こうして村でまつり、大しめ縄をかけ子供の健康を祈ったのです。
すると疫病もおさまり、母親たちが涙を流す日もなくなりました。
千人で引く程の巨大な岩のため、千引岩と言われ、それがまつられている千引神社は、血の道の神様と言われ、毎年4月3日、女達の手でおまつりし、お参りされているとのことです。
参道には毎年、たくさんの竹の子が顔を出します。


おきな塚(勝田)

 むかしむかしその昔、三つの仮面が天から降りてきました。
一つは松阪の和屋(わや)に。一つは射和(いざわ)の青尾(あお)に。そして最後の一つは苅田(かりた)、今の勝田(かつた)に。それは黒っぽい色をした仮面でした。村中はおおさわぎになりました。
「天から降りてきたぞー」
「これはおきなの面ではないか」
村人達はびっくりして神様に違いな
いと、勝田の村ではみんなで塚をつくってまつることにしました。
鴨下(かもしも)神社におきな塚といわれるのがそれです。
その頃、農民の間ではうらないがとても信仰していました。農作業をするにも、うらない師によって作業が行われたり、ものいみといって、今日は日がらが悪いからと家に閉じこもったり、迷信に左右されながら暮らしていましたから、塚を神様にしてまつることにも不思議はなかったのです。
また、田植えの時には田楽といって、歌い舞いながら田植えをするといった優雅な暮らしをしていたのもこの頃です。
そして、伊勢神宮ではお正月になると、神前で能楽を舞う行事が華やかにくりひろげられていました。
その神宮から勝田の村に申し出がありました。
「えぇー、おきなの面をつけて舞ってくれとな」
皆はびっくりしました。
「それでもこれは光栄なことじゃ」
村人達は神前で舞うことが誇りに思われました。
それからは毎日、このおきなの面をつけて獅子六舞という舞の練習が始まりました。一生懸命です。なにしろ和屋、青尾の村人達とも交代で舞うのですから。
こうして、お正月の四日間、勝田の村人は神前で天から降りてきたおきなの面をつけ、天下泰平を祝って立派に舞が行われました。
そして伊勢三座勝田太夫(いせさんざかったたゆう)という舞楽師(まいらくし)が生まれたのでした。
穏やかな、平和な世の中でした。


金明水・銀明水(田丸)

 むかし、織田信雄(のぶかつ)が田丸城へ入って左中将となり、田丸城築城に手を出しました。
「えっ、城のまわりを掘り割るのですか?」
「そうじゃ、すぐに農民を集めよ」
みけんにしわを寄せて、家来に命令しました。
「いいか、外城田川の流れをかえて、城下町を囲む外濠にするのじゃ」
と矢つぎばやに命令し、農民の声を聞こうともしません。
お城の外では、秋のとり入れが始まって忙しいというのに、たくさんの農民がかり出されようとしています。
しかし、それにさからう訳にもゆかず、朝早くから、くわを持った農民達が休む暇もなく働かされ、いく日もかかって大規模な工事が行われました。
ところが外濠を掘ったために水質がかわって、民家の井戸水が濁り、赤黒い水だけしか出なくなりました。「これでは飲み水にならない……」
人々は困ってしまいました。しかしどうすることもできません。
ところがある日、お城のぬけ穴を掘っていた人夫が、城内二の丸の南石垣下で不思議な水が湧き出てくるのを見付けました。
汲んでも汲んでも透明な水が溢れてきます。金明水・銀明水というこの水は神の水とされていました。
「これはすごい!」
このうわさは町中に伝わり、おかげで困っている人々には救いの水となりました。
やがて町かどの水槽に運ばれた神の水はみんなの飲み水となり、たいへん助かったということです。
この金明水・銀明水は、どんな旱魃(かんばつ)の時でもかれることなく湧き出てきたということで、茶人にはもっとも喜ばれたということです。


本町地蔵(田丸)

 お陰参りがさかんだった頃のお話です。
「火事やー、火事やー」
2月の寒いある夜、本町の町家から張り裂けんばかりの声が聞こえてきました。
「カンカンカン……」
火の見やぐらの半鐘が勢いよく鳴り響き、寝静まっていた町家は、どこもこのさわぎに目を覚ましました。
「たいへんだ、たいへんだ」
火を消そうとする者、ふろしき包みを背中に負うて逃げようとする者。町中ひっくりかえったような騒ぎです。
火の勢いはますますはげしくなり、パチパチパチと隣家へ燃え移ろうとしています。空は火の粉でまっ赤になり、町民達は
「えらいことや、えらいことや」
と血相をかえて走っていきます。
やがて火の勢いは風の音と重なって
「ゴーッ」
と巻きおこり、今にも町家全体をおおう気配です。
その時です。墨染の衣を身につけた僧が、燃えかかっている屋根に立ち、歩いているのが見えたかと思うと、勢いよく燃えていた火が、スーッと消えたのです。それは一瞬の出来事でした。みんなは棒立ちのまま身動き一つしませんでした。
そうしてひと筋の光が走ったかと思うと、僧は西光寺(さいこうじ)の地蔵堂へと消えたのです。
不思議なことにその時閉まっていたはずの扉がいつの間にか開き、仏像は安置されていました。
このありさまをみていた町民たちは興奮した声で
「あれは西光寺の地蔵さまや、火除け地蔵さまや」と叫びました。
それからは、火事がおこると墨染の衣の僧が現われて、大火にならなかったと言われています。
この地蔵堂には、延命子安地蔵と、十一面観音像がまつられ、大正時代までは毎年、7月24日、地蔵会式(えしき)が行われ、花火や相撲大会などの行事にたくさんの人々で賑わったということです。
西光寺は、田丸城の鬼門にあたるということですが、手入れのゆき届いたこの境内で、さらいのあとがお寺の風格をただよわせていました。
わけのぼる
ふもとの道はわかれども
同じ高嶺の月を見るかな
西光寺地蔵堂より


身代わり歯痛地蔵(田丸)

 今から250年ほど前、松阪の博労町(ばくろうちょう、現本町)にある惣安寺(そうあんじ)というお寺が、全焼するという惨事に見舞われました。
すぐには再建できなく永い歳月が経って、やっと再建されたものの、明治6年に廃寺となり、古くからこのお寺にまつられていた如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)だけは、そのまま残されていました。
如意輪観音像とは、如意宝珠(にょいほうじゅ)を持ち、あらゆる願望をかなえて幸福をあたえる観音像であると言われています。
廃寺になってそのままでは、石像がもったいないと、先祖は庄屋さんをしていたという浦町の庄三さんら八人組がもらい受けることになりました。
「立派な石像じゃのう」
と組内の安全を祈ることにして、さっそく大八車で松阪から浦町へ運びこまれることになりました。
季節は冬。
「よいしょ、よいしょ」
と毘沙門堂の横に運ばれた頃には、もうとっぷりと日が暮れていました。
それでも、石像の前に立つと、右手をほおにあて、やさしそうなお顔で、人の世の来し方(こしかた)、ゆく末を静かに考えているかのような姿に、一日の疲れも忘れ、心奪われそうになるのでした。
そうして八人組は、毎朝お花やお線香を上げてお参りする日が続きました。
そんなある日、歯が痛いといって、ほおに手をあて、泣きじゃくっている子供がいました。
母親は、医者いらず、薬サボテンといわれているアロエをとってきて、ほおにはってやりましたが、痛みは止まらず泣きやみません。
母親は、あのお地蔵さまも子供と一緒のしぐさをしてみえると思いつき、泣く子を連れて、お地蔵さまの前に立ち
「ほうら、よく見てごらん。お地蔵様も歯が痛い痛って、なでてあげようね」
とあやしていると、子供はすっかり泣きやんで歯の痛みがとれてきたのか、しだいに笑顔が戻ってきました。
それからは、歯痛め(はやめ)がおこると、このお地蔵さまが身代りになって下さると伝えられ、如意輪観音像は歯痛身代り地蔵といわれ今日に至っています。


佐田山のキツネ(佐田)

 むかし佐田は松林におおわれて、小高い丘にはキツネのすみかがあり、村人達は日暮れになるとキツネが出るといってうわさをしていました。
秋祭りのある夜、親戚によばれに来ていた村人が、お土産にキツネの好物である稲荷寿司をいっぱい入れた包をいただいて帰ることになりました。
「おなかも満腹になったし、いいきぶんじゃ」
と提灯の明かりで松林の中ほどにさしかかった時、
「コンコン、コンコン」
と後ろから鳴き声がします。振り返るとコトンと何かが突き当たり提灯はスーッと消え、持っていた稲荷寿司はなくなっていました。
「あれぇー」
と腰を抜かした拍子に消えたはずの提灯が、パッとつきびっくりした村人は、
「たっ助けてくれー!」
一目散に逃げてきたということです。
また、ある村人はお祭りの御馳走を片手にお酒をいただいた赤い顔でフラフラと松林を歩いていると
「コンコン、コンコン」
と女の人が手招きしています。
村人は口をゆるめて、その人のあとをついていくと、お湯につかるようにと言います。村人はあわてて着物をぬぎ湯舟につかりました。
ところが、この村人の帰りを首を長くして待っているかみさんが、まだ帰ってこないと言ってきました。
「なぁに三時間も前に帰った」
といい、みんなで手分けをして探しました。
すると、山の道筋にある肥えだめの中で
「いい風呂じゃ」
と笑って入っているのです。
みんなはあわてて引き上げました。いつの間にかお土産の御馳走は消えてなくなっていました。
こうして、キツネに化かされた。という話があちこちでささやかれるようになりました。
キツネは、食べ物の神の使いであるといわれ、佐田の人達は食べ物の神様である稲荷さんをということで、キツネのすみかに稲荷神社をまつりました。それからは、
「コンコン、コンコン」
という鳴き声は聞こえても、キツネに化かされた。という話は聞かなくなりました。
今はミマス株式会社とJR参宮線(さんぐうせん)の間にまつられ、初午(はつうま)の日に旧佐田村の人達によってお祭りが行われています。


獅子塚(下田辺)

 今から250年程前、下田辺(しもたぬい)の村では大凶作と重い税で苦しんでいました。
それに追いうちをかけるように、はやり病がおこったのです。
「うちの子がえらい熱でのう」
「おらとこのもまっ赤な顔して苦しんどる」
村のあちこちで深刻な話が聞こえてきました。痘瘡(とうそう)というはやり病です。この病気はあっという間に感染して村のほとんどの人がかかってしまいました。田畑に出てくる人もなく、物音ひとつ聞こえない状態です。
暗い雰囲気の中で声をかけた若者がいました。
「悪魔払いに獅子舞をしよう」
この意見に反対する者は一人もいませんでした。さっそく、おす、めすの2匹の獅子頭をつけ、太鼓、笛にあわせて若者が一軒ずつ門廻し(かどまわし)を行い、はやり病がなくなるようにと舞ったのです。
すると獅子の勢いに恐れをなしたかのように、痘瘡病が逃げていきました。
その年はたくさんのお米が取れて、村中喜びあいました。若者達のおかげで村には活気がでてきました。
ところがある年のことです。
若者達が獅子を舞っていると、急に2匹の獅子が暴れ出したのです。
気の荒い神さまが乗りうつったかのように、どうしようもない程、暴れたのです。若者達は、目を丸くして驚くばかりです。言葉も出ません。
それはまるで、獅子がみんなの家の悪魔を呑込んで苦しんでいるように見えました。
若者達は、暴れている獅子が可哀相に思えました。みんなの苦しみを救って身代わりになってくれたのだと思ったからです。
「安らかにさせてあげよう」
みんなは稲干場に穴を掘って獅子を埋め、静かに眠らせてあげました。
そこに獅子塚という石碑が祀られていましたが、訪れたその日、稲干場は新しい工場ができるので、ブルドーザーが入り造成され、石碑は隅の方に移動されていました。


正念塚(茶屋)

 むかしむかし、正念さんという六部(ろくぶ)がいました。六部というのは、法華経を書き写し66ヵ所のお寺に奉納する修業僧のことで紺木綿(こんもめん)で包んだ鉢形の笠をかぶり、厨子(ずし)入りの仏像を背負い鉦(かね)を鳴らして各地を歩いていました。
その正念さんが初瀬街道(はせかいどう)の上田辺(かみたぬい)の茶屋(ちゃや:地名)にさしかかった時、長旅の疲れが出てきたのか、顔は青く今にも倒れそうな歩き方をしていました。通りかかった村人が、
「だいじょうぶですか?」
と声をかけると、そこでばったり倒れてしまいました。
「おーい、みんな手をかしてくれー」村人の呼び声で、たちまち人だかりができて皆で家まで運びました。
ぐっすり休ませてもらった正念さんは、目がさめたときは顔色もよくなり、食欲もでて元気になってきました。
村の人の手厚い看護に正念さんは涙がでてきました。修業とはいえ、苦しいことばかりです。
こんなに親切にしていただいて、お礼をしなければ正念さんの気がおさまりません。
しかし、正念さんは、お金も、親兄弟もなく一人ぼっちで巡礼している僧です。
そこで正念さんは、初瀬街道を往き来する旅人たちの安全を祈って、人柱に立とうと決心しました。
人柱とは、人を生きながら水の神や、地の神へささげることです。
自分を犠牲にしてまで、世のなかの人の役にたちたいという正念さんの言葉に、村人たちは驚きました。
「そこまでしなくても」
「いや私の気持ちです」
という押しもんどうが、何度も繰り返されましたが、正念さんの決心はかたく止めることが出来ませんでした。
正念さんは、自ら穴を掘って、節を抜いた青竹をさし込み、人柱に立ちました。
竹筒の中から、念仏の声がかすかに洩れ聞こえていましたが、だんだん途絶えがちになりとうとう何も聞こえなくなってしまいました。
それからの初瀬街道は、正念さんの信念が通じたかのように、軽い足取りで旅をしている風景がみられるようになりました。
村人たちは、正念さんの死を憐れんで塚を築き供養しました。
今でも、この村では、人を慈しむ心が語り継がれているのでしょうか、訪れた日もお線香が上げられていました。


黄金塚(宮古)

 むかしむかしある年のことです。
「ザーザー」
2、3日前から降り続いた雨はやみそうにもなく、農家の床下は、もう水につかってしまいました。
「このままじゃ畳を上げやないかんぞ」
「山の木が折れとる音がする」
騒々しい夫婦の会話が聞こえてきます。雨はやみそうにもなく、とうとう床上まで水がつかってしまいました。
「カンカンカン」
村の半鐘の音がします。
夫婦は身の危険を感じて、とるものもとりあえず避難しました。
三日三晩降り続いた雨も、ようやく峠を越したのか小雨になってきました。
しかし、ひどい雨で床までつかった水はいっこうに引きそうにもありません。水が引けたら、折れた木とともに家まで流されていくのではないか、そうなれば村は全滅だとみんな心配しました。
まんじりともできない夜が続きました。と、この夫婦の夢枕に
「村がなくなって三軒になったら、お寺の裏の山を堀りなさい。金の鶏が埋めてある」
神さまのお告げがあったのです。
その朝、夫婦は不思議なことがあるものだと思っていました。徐々に水が引いて、荒れたものの村は流されずにすみ、もとの村によみがえっていきました。
よく年のお正月のことです。お寺の裏の山から
「コケコッコー」
という鶏の鳴き声が聞こえてきたのです。
「あそこは山が深うて誰も住んどらんのに、鶏の声がするとはおかしなことやのう」
「そやけど確かに聞いた」
村はたいへんなうわさになりました。
夫婦はあらしの時のことを想い出しました。あの時、村が三軒になったら、お寺の裏の山を掘れという神さまのおつげがあった。
しかし、村が三軒にならない内は、絶対に掘りおこすことはできないと、正直もののこの夫婦は、ずっと守り通してきたので、今だに金の鶏を掘ることはできません。
毎年お正月がくると、お寺の裏の山から鶏の鳴き声がが聞こえてくるということです。
いつしかここを黄金塚と言うようになりました。
金鶏(きんけい)伝説は、蚊野(かの)、勝田(かつた)、坂本(さかもと)など町内にもたくさんあります。
あえてとりあげたのは、そこに昔からの『ロマン』があるからです。


まめくじ大王(宮古)

 むかしむかしある年の春、2月満月の夜のことです。
「そろそろ田の神にならねば」
と、山の神は宮古(みやこ)の里に降りる用意をしました。
今年もお米がたくさん取れるように、みのりの神となって村人たちを喜ばせてあげようと、石垣のほこらの中に降りてきました。
村では、どの村人も田植えの用意をするのに忙しそうに働いています。
しかし、あるおばあさんが足をいたそうに引きずって歩いているのが目にとまりました。
「どんな薬を塗っても痛みがとれやん」
と、こぼしながら足をさすっている姿を見て、山の神は日頃心やさしいおばあさんなので、かわいそうになんとか助けてあげたいと思いました。
「山の神にお祈りして助けてもらおう」
おばあさんは、毎日足を引きずりながらお参りに行くことにしました。
石垣の中にまつられているタマゴ型した石の神に
「足の痛みがとれますように」
と、木の枝にまめくじ大王を作り、赤土のだんごをお供えしてお祈りしました。
すると、おばあさんの祈りが通じたのでしょう。だんだん足の痛みがとれ、これならば田植えもはかどると喜びました。
そして、その年は今迄にない豊作で山の神はにっこり微笑みました。
「どれ、田の仕事も終わったし山へ行こうか」
11月の満月の夜、山へ帰っていきました。
こうして、山の神は毎年山と田を行き来して、村人たちの暮らしをそっと見守っているのです。
村人たちはこのタマゴ型した山の神を、骨折や身ばなれなど足が痛い時には治してくれる神様として『まめくじ大王』とよんでまつっていました。
今、石垣はとりこわされてしまいましたが、山の神は山と田の守り神として村の入口にまつられています。


大乗妙典塔(小社)

 昭和56年、法泉寺(ほうせんじ)の右門脇にある大乗妙典塔を道路拡張のため移転した時、
「なにやらようけ出てきた」
とビックリしたように、たくさんの経石が出てきたのです。白い小石に一字づつ経文が書いてありましたから、
「これはすごい!」
と村中の話題になりました。
そしてこんなお話があったのです。今から150年ほど前のこと、藩の財政が苦しくなり、税を重くして農民を困らせている状態が続いていました。
生きるのがやっとの生活の中で、日照りや長雨が続いてお米が取れなく、食べ物にも困ってあちこちで死者が出てきました。
いわゆる天保(てんぽう)の飢饉(ききん)です。
天保4年にはじまった飢饉は7年には頂点に達し、餓死者や伝染病による死者は無数であったと伝えられています。
幕府の対策も不十分なため、各地で農民による一揆、打ち壊しが起こり荒れた世の中になっていました。
小社(おごそ)の村でも流行病がおこり、どこの家でも戸を締め、村はすっかり静まりかえってしまいました。
そんな時、六部という修業僧が通りかかり村の悲惨な姿をみて、
「このままでは、みんなだめになってしまう。」
と河原で小石を拾ってきて、一字一字経文を書いておさめました。
それを知った村人達はとても心強く、みんなで励ましあって流行病で亡くなった人達の供養にと、大乗妙典塔と刻まれた石碑を建てました。
大乗妙典塔とは、自分よりもまず人のために幸福になってほしいと願う仏法のことです。
それからは言うまでもありません。流行病もおさまり、村には少しづつ活気が戻ってきました。
  法泉寺の大乗妙典塔は、時のながれにかかわりなく、その当時のありさまを静かに物語っているように、ひっそりとまつられています。


洪水から救った観音さま(曽根)

 むかしむかしのお話です。くる日もくる日も晴天が続き、田んぼも畑もからからに渇いていました。このままでは、せっかく苦労して作った作物も枯れてしまうと、ある村人が宮川の河原へ水をくみに出かけました。
桶に水を入れていると、なにやら光り輝いているものが上流から流れてくるのです。
「なんやろ……」
村人はまばたきもせずみつめました。
拾い上げたのは立派な観音さまです。
「こりゃーえらいことや」
村人は桶を持つのも忘れて、飛んで帰りました。
村中、おおさわぎになりました。なにしろこんな立派な観音さまは見たこともなかったからです。口元に紅を塗って、やさしそうなお顔の観音さまにみとれるばかりです。
「おれが拾ろたんや」
村人は、鼻高々に言いました。
「ちゃんとまつらんとバチがあたるぞ」とみんなは観音さまを大切におまつりしました。
その年の秋のことです。ほしいときに降らなかった雨が、今度は抜けるように降り続き、嵐となってしまいましたこのままでは堤防がこわれるのではないかと、じっと座っていられません。
やがて、宮川からゴーゴーという大地を揺さ振るような地響きが聞こえてきました。
「おーい、こりゃぁ避難せな危ないぞ!」
声は、うわずっています。
村人達は自分達の命も大切ですが、家畜として飼っている牛も流されては、百姓に困ることがわかっているので、牛を避難させることにしました。
村人達は危険を承知で牛を連れ出し、お寺の観音さまの前に集めました。
「堤防が切れたぞー」
とうとう水は村までおし寄せてきました。苦労して作った作物も流され、もう自分達の命も、牛もだめだとあきらめようとした時、不思議なことがおこったのです。
まわりは水がおし寄せ、ドーという音とともに、家や木が流されていくのに、牛がいるところだけは水がつからなかったのです。
「観音さまが助けてくれたんや」
助かった牛をみて、村人達は観音様に感謝しました。
善楽寺境内の観音堂にまつられている十一面観音菩薩は、毎月18日、村の婦人会の皆さんが中心となっておまつりされているとのことです。


まいあがったはんこ(中角)

 今から200年ほど前、江戸時代のことです。
このころ新しい作物が外国から伝えられるようになり、どんどん作られはじめました。
 カボチャはカンボジアから、ジャガイモはジャガタラ(インドネシア)から入ってきました。
日でりでお米が穫れない年には、たいへん助かったということです。
「金太郎さんや、毎年精がでるのう」オボトケの畑で一生懸命畑を耕している金太郎さんに、通りかかった村人が声をかけました。
「明日は雨が降るといいのにのう」
金太郎さんは、種まきの手を止めて空を見上げました。
 しかし、雲はひとつもなく雨は望めそうにもありません。
「どれ、もう少しがんばるか」
力いっぱい鍬を振り上げ、グイと土をおこしたところ、金太郎さんの着ているはんこが、フヮーと舞い上がったのです。
 するとなにやら土の中からかたまりのようなものが出てきました。金太郎さんはドスーンとしりもちをつき、それを見ていた村人がかけつけてきて
「なんやなんや」
不思議そうに見ました。土のかたまりのように見えるけど、黒っぽくてなにやら重い。
「けったいなもんやのう」
と金太郎さんは家へ持って帰り、軒下に置いてそのままにしておきました。
 翌日、金太郎さんが望んでいたように雨が降ってきて、軒下に置いてあった土のかたまりがきれいに洗われ、ピカピカと光り輝いているのです。
金太郎さんは、またびっくりしました。
「これは立派な仏像じゃのう」
手のひらにのる程の小さな仏像を目を丸くしてながめました。
右手を天に、左手を地に向け、満面に笑みを浮かべたおおらかなお顔。
 金太郎さんは、さっそく田丸玄徳寺に持っていき、釈迦誕生仏であることがわかり、お寺で祀ってもらいました。
 お釈迦様は今も、金太郎さんの生家で大切に祀られています。
 当時のオボトケ畑は、ビニールハウスが建ち並び、すっかり昔の様子はなくなっていましたが、なんでもその昔、そこにはたいそう立派なお寺が建っていたそうです。


長者ヶ渕(岩出)

 むかしむかし、ずっと昔のことです。
 おじいさんが宮川へ魚をとりにいきました。強い日差しの下で、わき目も振らずに魚をとっていました。
「おゃ!へんなものが見えるぞ」
川底に大きなかたまりがあるのを見つけました。
「やゃ!これはなんじゃ?」
よく見るとそれは、うるしあぶらのかたまりでした。上流の山や谷から、うるしの木から出る白っぽい液が、しずくとなってたれ落ち、川底に沈み長い月日の間に大きなかたまりになっていたのです。
 その頃、うるしの液は、刀のさやや、馬のくらなどに塗り、たいへん貴重なものでした。なにしろ一本のうるしの木から、ほんのわずかの液しかでないのですから、牛程のかたまりを見つけたおじいさんは、魚をとることも忘れてうるしのかたまりをとって売りにいきました。
「ひぇーこんなにもらっていいのかのう。」
びっくりするくらいの小判をもらったおじいさんは、鼻歌で家へ帰りました。
 くる日もくる日も、うるしのかたまりをとってきては売って、笑いも止まらない程の大金持ちになりました。わき目も振らず一生懸命魚をとっていたのに、たいへんぜいたくな暮らしをするようになりました。
 さぁ、村ではたいへんなうわさです。みるみるうちに大金持ちになったおじいさん。村人たちは不思議に思いました。
 みんなのうわさを耳にしたおじいさんは、うるしのありかを村人たちに知られると大変だと思い、模型の蛇を造り川底に沈め村人たちに「あの渕には大蛇がいる」
と言いふらしました。びっくりした村人たちは
「そんな処へはこわくっていけねぇ」と恐れて、誰も寄り付こうとしませんでした。
「これでおれが一人じめできる」
と安心したおじいさんは、こっそりとうるしをとりに出かけました。
「へへぇ、これでまた小判が増えるわい」
欲を出して川底に手を入れようとした時、風が川の上に渦を巻いて吹き荒れ
「ウォー!」
といううめき声とともに、おじいさんの造った模型の蛇が、本物の大蛇となって現われ、おじいさんを一気に呑込んでしまいました。
 そのおじいさんを市守長者といい、うるしのかたまりがあった処を長者ヶ渕と呼んでいます。


あなぼとけ(上玉川)

 「信長の火ぜめはすごいのう」
「寺という寺は全部焼くというとる」村では、たいへん深刻なうわさが広まっています。
それというのも、室町幕府をほろぼした織田信長は、全国統一をめざして、その勢力はすさまじいものでした。
が、仏教が宗教の立場を離れて、政治にくちばしをいれるようになり、立場が不利になるのを恐れた信長は、僧を倒すため、お寺を焼くように家来に命令したからです。
「えらいことや、えらいことや」
「隣村の寺も焼かれたという」
「わしらの寺も危ないのう」
とうとう、うわさが自分たちの身にもふりかかってきて、村人たちはあわてました。
 なにしろこの吉祥寺は、寺領百石をもった由緒あるお寺で、たいそう立派な阿弥陀(あみだ)如来がまつってありましたから、村人たちが恐れるのも無理はありません。
 そこで、みんなで相談して阿弥陀さまを土の中に埋めることにしました。それを聞いた和尚さんは、阿弥陀さまを土の中へ埋めるなどめっそうもない。罰があたると反対しました。
 いくら話し合っても和尚さんと村人たちの意見はくい違います。信長の兵は、今にも攻めてきそうです。一刻も早く決断しなければなりません。
 村人たちは、こうなったら仕方がないと、和尚さんが寝静まるのを待って本堂へ忍びこみました。阿弥陀さまを手にすると、急いでお寺の奥の山に穴を掘り隠したのです。
 その翌日、お寺はまっ赤な炎に包まれて焼かれてしまいました。
 命からがら逃げ出してきた和尚さんは、阿弥陀さまが無事なのを知って、村人たちに感謝しました。
 阿弥陀さまが助かったんだ。
おれたちの力でお寺を再建してみせると、荒れた焼け跡を見つめながら、村人たちはこぶしを上げました。
 お寺を焼いた8年後、信長は京都本能寺で火をはなって、自らの命をおとしたのです。
 いつしか村人たちの間で、阿弥陀さまを隠した処を、あなぼとけと言うようになりました。


勝軍地蔵(岡村)

 むかしむかしのことです。
 明けても暮れても、いくさが続き、お城の中は緊張したおもむきに包まれていました。
 「今度の戦いはどうじゃのう」
 「もちろん、わしらが勝つさ」
 胸を張って答えているものの、不安は隠せません。しかし、
 「明朝出陣だ!」
という命令に、顔は引き締まりざわめいてきました。
 家来たちもわしらの出番とばかりに活気がでてきました。
  ところが、そのいくさも敵方にあっけなくやられ、胸を張っていた家来も、足を引きずって帰ってきました。
 「くやしいのう」
 「いや、今度は勝つ」
と家来たちはやられても一向に望みを捨てません。
  そんないくさが何度も繰り返され、お城では焦りの色を濃くしてきました。
 「どうしたら勝てるやろ」
とみんなで話し合いました。
 「兵をもっと集めたらいい」
 「刀をたくさん用意せよ」
 「そうじゃ、お城の鬼門に地蔵さまをまつったらどうじゃ」
いくさに勝つことだけしか頭にないみんなは、とても良い考えだということで、お地蔵さまを彫ってもらうことにしました。
そしてお城の北東にあたる処は
「アタゴ山だ!」ということで、そこにお地蔵さんをまつったのです。
そのお地蔵さんを勝軍地蔵といい、その名のとおり、それからのいくさには勝利をあげることができました。
  今は、岡村慈照寺(じしょうじ)境内にまつられ、土地の人々からは、『アタゴさん』と呼ばれています。
  やさしい童顔のお地蔵さまは
「わしゃいくさは嫌いじゃ」

と言わんばかりに立ってみえます。

爪描き地蔵(長更)

 むかし、大仏山(でいぶつやま)が深い深い山で木々がおい茂っていた頃のお話です
「山賊が出たぞー」
震えて走ってくる村人がいます。昨日も今日も、まる裸にさせられた村人が山から飛んできます。
「おっかねぇなー」
「こわくってあの山へはいけねぇ」と村人達は山賊の出てくる山へ仕事に行くのをためらうようになりました。
 そんなある日、長更(ながふけ)の村に弘法大師さまが通りかかりました。
村人がそんなに困っているのなら、なんとか助けてあげたい。
しかし、山賊を退治するには一人の力ではどうすることもできないと、村人達と相談しました。なにしろ刀などの武器を持っていないので知恵比べです。
 そうして、あたりが暗くなって山賊達が寝静まるのを待ちました。山賊達が寝ているほら穴から大きないびきが聞こえてくるのを確かめると
「ヨイショ、ヨイショ」
と大きな岩を運んできて、ふたをしてしまいました。山賊達はとうとう閉じ込められてしまったのです。
 弘法さまは、悪いことをして、村人達を困らせた山賊でも、安らかに眠れるようにと、爪でその岩にお地蔵さまを刻んで供養されました。
そして再び旅に出られたのです。
 それからは、長更の村人達が毎年9月18日になるとお参りするようになりました。
また、縁起物として、お地蔵さまの鼻をけずって持っていくので鼻がかけ、鼻かけ地蔵さんとも言われています。
 このお地蔵さまは、西新村(にししんむら)へ行く山の斜面にまつられ、お線香と、新しいお花が供えられてありましたが、今は県の所有地になってしまいました。


榎木の獅子(世古)

 むかしむかしのことです。
ある年のこと、村ではやり病がおこりました。長雨が続き作物も取れなく、病にかかってもじっと寝ているだけでした。
 そこで村では、悪病払いと豊作祈願をこめて獅子舞を舞うことにしました。
 獅子には、暴れまわる雄(おす)獅子ときれいに舞う雌(めす)獅子があります。村では元気のよい雄獅子を舞うことにしました。
 皆で獅子宿という当番を決め、獅子の舞う道順を相談したり獅子を取り扱う人、舞手などを決めました。
「二人が舞う二人立ち舞がいいのう」当日は大淀の浜まで行き、身を清めました。
 その日、お寺でたくさんの人に囲まれて
「ホーボャ、ホーボャ」
と勇壮な姿で獅子舞を披露しました。
 やがて獅子舞は、村中を舞い歩くことになりました。
 ところがお寺の前の榎木にさしかかった時です。勢いよく舞っていた獅子が、そびえ立つ榎木にしがみついて離れなくなったのです。
「どうした、どうした…」
「獅子が離れんがのうー」
獅子は勢いあまって天に向かって登ろうとしたのです。
 榎木は松や杉などのように、神の木とあがめられていましたから、村人達はこの木のできごとを神のしわざだと思い、かたずをのんで見守っていました。
 天へ舞い上がりたかったのでしょうか。暴れまわった獅子は、やがて村中を舞って歩きましたが、それからはずっと獅子は榎木のところに来ると、しがみついて離れないので、そのつじのところを通らないようにしました。
 こうして世古の獅子は榎木の獅子と言われるようになりました。
 また、大根をお供えしそれを食べると、風邪をひかないという風習も伝えられ、1月15日には獅子舞は一軒一軒を舞って、威勢いのよい声が聞こえてきます。


夜泣き橋(岩出)

 むかしのことです。
稲刈りの作業から帰ってきた若い母親が、赤ん坊にお乳をふくませながら、こんなによくお乳を飲むのに、今夜も夜泣きに悩まされるのかしらと不安になっていました。
 その夜、みんなが寝静まると
「オギャーオギャー」
顔をまっ赤にして泣き叫んできました。母親は、家族の者に気がねして赤ん坊を抱いて外へ出ました。
昼間、農作業が忙しくって赤ん坊の面倒をみてあげられないので、この子は夜になると私に甘えて泣くのかしらと、若い母親はいろいろなことを考えました。明日の仕事もあるし、早く眠りたい。おとなしく眠ってくれればいいのにと、泣き叫ぶわが子さえうらめしく思いました。
 毎夜、夜泣きに悩まされた母親がある晩、赤ん坊を背負って、村のはずれの橋にくると、赤ん坊の泣き声がピタリとやんだのです。
「あっこれで眠れる」
とほっとした母親が、家へ帰ろうとすると、また泣き出すのです。母親も一緒になって泣きたい気持ちです。
 …と、その時、暗やみの中から 「小豆を供えて、この橋のランカンを削って赤ん坊の寝床へひいてやりなさい」と言う神様のお告げがあったのです。母親はビックリして飛んで帰りました。
 あくる晩のことです。泣き出した赤ん坊を背負って母親は、神様のお告げどうり小豆をお供えして、ランカンを削って赤ん坊の布団の下にひいて寝かせました。
 すると、その夜から夜泣きが治ったのです。親子に笑顔がもどりました。うわさを聞いた母親逹も、子どもの夜泣きに悩まされると、この橋へ来て願かけをしたので、夜泣き橋と言われるようになりました。
 また、この橋は小豆橋とも言われ、ランカンの木は、近くのお宮さんから採ってきた木とも言われています。
 そして不思議なのは、毎年初午(はつうま)の頃になると獅子舞が舞ってきます。岩出の村を巡回して、この橋を渡って帰ろうとするとどうした訳か、獅子頭が割れたのです。それからは、獅子頭だけは山道を通って行くということです。
 今は、コンクリートの橋になり、注意していないと通り過ぎていくような、小さな橋ですが、その橋のたもとの草むらに『夜泣白竜明神』と刻まれた碑が、ひっそりと祭られています。


蚊野松原の変(松ヶ原)

 その昔、ここ野篠(のじの)と蚊野(かの)の間には松並木が続き、370年程前から語り継がれているお話があります。
 むかしむかし、わずか5歳で田丸(たまる)城主になられた殿様がいました。その名は稲葉淡路守紀道(いなばあわじのかみのりみち)さま。とても可愛いい殿様でした。
幼少のため、お守り役として少庵(しょうあん)という家来がつけられました。少庵は殿様を厳しくしつけ、立派な若武者に成長されたのでした。
 しかし少庵は、
「おれが殿様を育てたのじゃ。おれの言うことを聞け」
とお城の中をわがものにするようになり、しばしば争いがおこりました。そんな時、いつも陰になり殿様に仕えていたのが小牧吉運(よしとき)、吉繁(よししげ)という仲のよい兄弟でした。殿様も小牧兄弟を頼りに思っていました。
 殿様が12歳になられた時、松平家からお姫様をもらわれました。それはそれはきれいなお姫様でした。
 その年の冬のことです。西の豊臣と東の徳川が争いはじめました。大阪冬の陣です。
殿様も松平の軍に従って出陣しました。当然徳川の味方です。殿様にとっては初陣(ういじん)です。
そこでは立派に活躍され、高く評価されました。
「お殿様のお手柄ですぞ」
「おみごと、おみごと」
と小牧兄弟が手放しでみんなと喜んでいるのに、一人背を向けている者がいました。
「くそ!つぎのいくさは豊臣方につくのじゃ」
少庵は殿様と小牧兄弟が仲むつまじくしているのが憎く、眉をつりあげて家来に命令しました。
「殿様は徳川方じゃのに裏切るのか」「それでも言うことをきかんと、どんな目にあうかわからんでのう」
命令された家来たちは、おびえながら従うことにしました。
 しかし夏の陣でも、徳川の勢力はすさまじいもので、大阪城の外堀も内堀もうめてしまいました。少庵はあわてました。
豊臣方に密通していたことが小牧兄弟に知れ、殿様に訴えられると一大事になると思った少庵は、
「小牧兄弟を殺せ!」
金切り声で家来に命令しました。
 6月15日、少庵は蚊野松原で小牧兄弟を待ち伏せ襲ったのです。
 緑の松林は血に染められ、殿様に一生懸命尽くしてきた小牧兄弟は悲しく散ってしまいました。
 やがて、少庵は、流罪(るざい)となり、どこの土地へ送られたかは知る人もないのです。


首切り地蔵(田丸)

 なにげなく通り過ぎてしまう村の境や、川岸、橋のたもとなどで、童顔のお地蔵さんを見かけます。
 この首切り地蔵さんも田んぼのまん中で400年ほど前からたちつづけ、今なお人々の信仰をあつめているお地蔵さんです。
そして、こんなお話があります。
「勘助さんは、足が悪いのに朝早くからどこへ行くんじゃ」
隣に住んでいるじいさんが問いました。勘助さんは、足を引きずり不自由な体でも、にっこり微笑んで、西光寺(さいこうじ)の裏の方へ歩いていきました。
「隣のじいさんは、調子がえいのう。いつもニコニコと」
と勘助さんの後ろ姿を見送りながら、足で戸をけとばして家の中へ入っていきました。
 小作人である勘助さんの暮らしは、けっして楽だとは言えません。取れた農作物の半分以上は小作料として地主さんに納めなければならないのです。それでも勘助さんは、足が不自由なのを辛抱して、一生懸命仕事をし、まじめに暮らしていました。
 そして農作業に出かける前には、必ず首切り地蔵さんにお参りに行っていたのです。この首切り地蔵さんは、悪いことをした人達が処刑され、その供養にと建てられたお地蔵さんでした。
 勘助さんは、どんな悪いことをした人でも死ねばみんな仏になると信じて、お地蔵さんにお参りしていました。そのことを知らない隣のじいさんは、勘助さんが毎朝早く出ていくのが気になっていました。
 いく日かたったある朝、勘助さんが軽い足取りで、出かけていくのを隣のじいさんが見ていました。
「おや!足を引きずっていたのにいつの間に……」
とキツネにつままれたようでした。
 やがて、勘助さんが首切り地蔵さんにお参りしているおかげで、足がなおったといううわさが広がると、それを聞いた足の痛い人達がお参りに訪れるようになり、お地蔵さんには、次々に新しいよだれかけが掛けられるようになりました。
 それでも隣のじいさんは、
「そんなことが本当にあるものか」
と今日もまた、仕事をせず戸をけとばして、
「アイテッテ……」と足を引きずって家の中へ入っていきました。
 それから90年余り…、お地蔵さんをお参りし、なでて痛いところを擦るとなおるという信仰は、時の移り変わりにかかわりなく生きつづけています。


馬駆け神事(野篠)

 百年程むかしのことです。
「今年も豊作じゃのう」
「神さんのおかげや、ありがたいことや」
と村は毎年の豊作に、どの村人の顔にも笑いがとまらない様子です。
 秋のとり入れが終わると、村のお宮さんでは、みのりを感謝してお祭りが行われます。神事(じんじ)といって、家では御馳走をつくり、農作業も休んで、村中お祭りをしました。
 ところがある年のことです。天候が悪かったのか、さっぱりお米がとれなかったのです。村人達は暗い顔で、哀しみにくれました。
「今年はさっぱりじゃのう」
「来年はきっと豊作になる」
と翌年に望みを持っていましたが、翌年も大凶作で村人達はがっかりしました。村はますます暗い雰囲気につつまれました。
「わしらが頼りになるのは神さんだけや」
「なんとかいい方法はないものやろか」
村人達は真剣に考えました。
「八柱の神さんは気の荒い神さんていう」
「馬でも走らせて縁起をかついだらどうやろ」
と額にしわを寄せて村人が言い出しました。
 村人達は、わらをもつかむ思いですから、それならと神事がおわったあと、大塚で馬駆け行事を行いました。
 紅白の飾りをつけ、馬にまたがった若者は椎の木を折ってムチにし、馬を走らせました。
ひずめの音は遠く大日山のふもとまで響き、たてがみをなびかせ境内を三十三回まわった馬の姿に、村人達も歓声をあげ、それはそれは勇壮な行事となりました。
 翌年の秋のことです。野篠の村からおやおや、こんな声が聞こえてきました。
「今年は大豊作じゃのう」と………
 神社合祀後、この行事はなくなってしまいました。


豊富地蔵(勝田)

 130年ほど前のことです。外城田川では、広い洗い場があり、女達はおしゃべりをしながら、川の中へ入り洗濯をしていました。
 母親にまじって子供達が水遊びをし、笑い声が聞こえています。
 ところがふとしたすきに、「とよ」という女の子がおぼれてしまい助けを求めています。
 たくさんの人だかりができ、川から引き上げられてきましたが、女の子の顔はまっ青で息もたえだえになっていました。
「とよ、とよ」
と母親が背をさすり、顔を叩いても、女の子は意識を取り戻すことなく息をひきとりました。
 母親はわが子をなくした悲しみから、しばらくは放心したような日々を過ごしていました。
 その頃ちょうど、六部(ろくぶ)という修業僧が、田丸(たまる)の町を通りがかり、女の子の死を哀れんで供養塔をまつりたいと申し出て、お地蔵さんと一緒に川岸にまつりました。
 古くから、この世とあの世の境目は、さいの河原であるばかりでなく、村の境、辻々や橋のたもとであり、そこにはいつもお地蔵さんがまつられてありましたから、母親は道行く多くの人々に供養してもらえれば、わが子の霊を弔うことが出来るのではないかと安堵しました。
 ところが、川岸にまつられたため、このお地蔵さんがいつの間にか川へ転落し、川底に埋まってしまいました。母親は、いたずらにしてはひどすぎると、たいそう嘆きました。
ある時、松蔵さんという左官屋さんが、川へ道具を洗いに行くと、
「あれー、地蔵さんじゃないか」
川岸からよいしょと拾い上げてきたのは、まぎれもなく、「とよ」さんのお地蔵さんでした。
 松蔵さんは、左官松と皆から親しまれている、とても信仰心の強いまじめな人でした。
「わしが拾い上げたのもなにかの縁じゃ」
と言ってそれからは毎日ちょうちんをつけて供養しました。
 今は田丸大橋のたもとに立派な地蔵堂が建てられ、道行く人々が豊富地蔵に手を合わせています。


龍の枕(昼田)

 むかしむかし、ずっとむかしから、大杉谷(おおすぎだに)の深山には竜神さまが住んでいると言われてきました。
 とても荒れた嵐の夜がありました。はげしい風もおさまり、いく日かたったある日のこと、宮川の水の流れが急に早くなったかとおもうと、大きな丸太がゴーとその勢いにのって、流されてきました。
 昼田の河原でそれをみていた村人は、
「ありゃりゃ」
と驚いて、その丸太を拾いあげ
「こりゃ薪にいいのう」
と家まで運んできました。さっそくおので丸太を割ろうとすると
「うーん」
と言ったきり、顔が青くなり倒れてしまいました。家の人がびっくりして、床に寝かせましたが、ぶるぶると震えているだけで薬を飲んでも効き目がなく困ってしまいました。
 そんなある日、山野を歩き仏道の修業をしている山伏が通りかかり、村人が丸太を割ろうとしただけで病気になったことを聞きました。
「わたしがまじないをしてあげよう」山伏は村人の枕元に座って
「ナムアビラウンケンソワカ」
と呪文(じゅもん)を唱えました。すると山伏に神さまがのりうつったかのように
「あの丸太は、竜神さまの枕じゃ。大切にまつられよ」
とお告げがありました。
 家の人は、さっそく丸太をまつり、病気が治りますようにと一生懸命祈りました。
 すると村人は顔色も良くなり、からだの震えもとまりもとの元気な姿になりました。
 それからは、この枕は龍の枕として、村人たちがお参りするようになり、この枕にお参りするとどんな病気でも治ると言われ、信仰を深めたということです。
 今は、昼田、中須(なかす)を歩いても、まぼろしの龍の枕になってしまいましたが、このお話だけが古老から語り継がれています。


岩坂不動の霊水(勝田)

 むかしむかしのことです。
田丸から棚橋(たなはし)へ抜ける志摩道は、時おり旅人の姿を見かけるだけの寂しい道で、『岩坂ギツネ』にばかされたという話がよく聞かれました。
 キツネの出ないうちに、岩坂峠を越えようと足早に歩いていたある旅人が、ひといきに歩いてしまったので急にのどが渇いてきました。
 静かに耳をすますと、サラサラと沢の音が聞こえてきます。
 旅人は水の音に寄せられたように細い山道を歩いていくと、きれいな水がしたたり落ちています。手にすくって飲んでみました。
「こりゃうまい」
ゴクゴクと一気に飲み干し、その水のおいしさに旅の疲れやキツネが出ることなど忘れてしまいました。
 そうして、このうわさは旅人達の間にも伝わり、岩坂峠(いわさかとうげ)の水はおいしい。と広まっていきました。
 ある日、村人が水を持ち帰ろうとすると、流れ落ちる水のところから光っているものが見えます。拾いあげて見るとそれは、不動明王の形をした仏像です。村人は
「こりゃ珍らしい」
と急いで村へ帰って皆に話をしました。
 不動明王とは、悪魔、煩悩(ぼんのう)を降伏させるため大日如来(だいにちにょらい)が化身(けしん)したものと言われています。そのため、怒りの相をあらわし、右手に剣、左手になわを持って、火災をうしろにして座っています。
 村人達はこの不動明王を岩坂峠を越える旅人達のためにまつり、守護神(しゅごしん)としました。そしてこの水は霊水として飲まれるようになったのです。
 山の中腹で水が落ちてくるのは、この辺の層が石灰石でできており、奥に鍾乳洞(しょうにゅうどう)があるからでしょうか。どんな旱ばつの時でも水がかれることなく湧き出て、不老長寿に効くと云われています。
 毎月28日は岩坂不動の縁日で遠方からもお参りに訪れ、水を持ち帰るのだそうです。

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